Babel Breakdown | |
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“神”がバベルの塔に鉄槌を振り下ろした。 明朝、目を覚ました“少年”は、母親が己を呼び起こす言葉が、異国の言葉になったのを聞いた。それでも母親の声だと判るのは、音色からである。“少年”の知る日本語の音律からは程遠い声に起こされて、自室を出て階下に。 朝食のために食卓についてみれば、父親の言葉も、兄の言葉も、いずれも各々が異なる未知の言語で話しているようにしか聞き取れない。しかし、彼らが意思を疎通しているのは明白だ。 “少年”は母親から朝食を受け取り、パンと牛乳を頬張りながら、事態の把握に努めた。先ず、家族の話す言語は、少なくとも“少年”の知る如何なる言語でもないと推測できた。聞き覚えのある単語は欠片も出てこないし、また音律が凡そ言語のそれとは思えぬからだ。敢えて言えば、ドナルド・ダッグの声がそれに近い。 朝食を終えた“少年”は「ご馳走様でした」と手を合わせ、ふと疑問に思う。自分は家族の言葉を理解できないが、家族は自分の言葉を理解しているのだろうか。しかし、疑問は時間に押し流され、母親家鴨の鳴き声に顔を上げると、時計の針は登校時間を指し示していた。 通学路で聞く同校生の言葉が理解できないことは、“少年”が事前に予測していた通りであった。 彼らは、いずれも家族と同様に家鴨言葉を話していた。家鴨言葉を話しながら通学路を一列に歩く学生服の一団は、ニュースで風物詩として紹介されるカルガモの行進を連想させる。時折、脇を通り過ぎる教師に頭を下げて挨拶をするさまは、カルガモ親子の相似形だ。 “少年”は部活動に所属していないため、朝練という習慣は通学中に脇に見るものであった。校庭では野球部が掛け声を発し、体育館ではバスケットボール部がボールが床を突き、バスケットシューズが床と擦る音をベースに、家鴨が歌を唄っている。 一時限目の授業は「歴史」であった。黒板に教師が書いた文字は、“少年”の予想に反し、漢字とひらがなとカタカナであった。教師は日本語で書かれた教科書を見ながら、家鴨語で読んでいる。家鴨語には、日本語と互換性があるのだろうか。あるいは――“少年”は自分でも驚くほど冷静にその思考を言語化した――自分の耳が家鴨の耳になっただけなのだろうか。 二時限目の授業は「英語」。授業の一環として、授業中は一切の会話を英語で行うことが強制されるが、教師の言葉は平常時と同様に、家鴨語として知覚される。この奇妙な状況を“少年”は退屈の内に過ごした。 三時限目、四時限目の授業を転寝で過ごすと、昼休みには校外に出てコンビニエンスストアでパンと牛乳。ついでに週刊少年ジャンプを買って、適当に流し読む昼下がり。奇怪な状況と、状況に対する自身の反応の結果に対して“少年”は思案を開始した。 何故、この奇怪な状況が引き起こされたのか、を考えるのは二秒で放棄した。“少年”の能力で解決しえるのは、精々、大規模なドッキリである場合に、それを看破して仕掛け人の登場を待つ程度のことである。コンビニエンスストアの有線放送から流れる「リンダリンダ」すらも甲本ヒロト声の家鴨語になっている現状で、その可能性は考え難い。そして、自分に解決できない問題を悩むほど“少年”は愚かではなかった。 ふと、他にも自分と同様の状況に陥っている人間がいるのではないだろうか、という考えを思いついた。しかし、それは“少年”にとって何の意味も持たない可能性であった。その人物がどれほどの超人でも現状を解決する能力を持っているとは考えにくいし、解決可能な人物が存在するならば自分のほうに接触してくるのを待っても差は無い。 それ以上に気になるのは、現時点で自分と他者のの意思疎通能力に大きな障害があることは明白であるにも関わらず、意思疎通の問題は半日過ぎて発生していない点だ。無論、意思の疎通に阻害があったのが会話のみで、記述される文字が理解可能であったことは重要な理由である、しかし、筆談を要求されたことも無く、級友との会話も行っている。つまり、意思の疎通が阻害されている状況で、しかし生活が円滑に進んでいるということこそが真の問題であると言える。 コミュニケーションとは、ひとりの人間(I)が、思想や感情を、ほかの人間(YOU)に伝達する働き。また、その伝達手段のことである。伝達手段とは(広義の)言語のことであり、つまり家鴨語とはディスコミュニケーションそのものである。にも拘らず――“少年”は思考を強制的に停止した。 デウス・エクス・マキナ。 正解は深夜ラジオからやってきた。 “神”は深夜一時からの電波に乗せて、“少年”に語りかけてきた。 「今週思ったこと。会話の中には、論理的な会話と、感覚的な会話が存在する。所謂、男脳の会話、女脳の会話などと言われるものは、それが先天性の差異か、後天性の差異かという事実に拘らず、性差の有無はさて置いて個人差としては歴然として存在する。会話に起承転結を持ち、言葉に意味のある前者は、コミュニケーションのための言語である。コミュニケーションは蛇が唆して喰らわせたエデンの果実である。人間の持つ個人差――複製元たる“神”からの劣化――が理性言語によって、思想を共通し、感情を共感し、認識を共有することで有機的に合神化する危険性を持つ。しかし、孤独は絶望という病を引き起こし、人間を死に至らしめるがゆえに人間の交流は必要とされる。コミュニケーションを阻止しつつ、アソシエーションは維持する。そのために言語を理知言語と感情言語に分断した。よく考えろ、よく思い出せ、よく見ろ、よく聞け、注意深く知覚すれば、大抵の人間が会話と称するものの殆どが、実際には発語発話の応酬に過ぎない。彼らバベルの末裔はその応酬から避難するものをコミュニケーション不全者として非難する。相手の言葉を受け止めて、自身の信仰という濾過によって反応する前時代の生き残り、神の言葉、理性言語を話す、お前の心には未だ、バベルの塔が立っているのだな」 “神”はバベルの塔に鉄槌を振り下ろした。 | |
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僕らは完全言語を失い、いつだってディスコミュニケーションの中でコミュニケーションを図ろうともがいている。 | |