雲斬の秘剣。それは雲斬八卦を集めた者が手に入れられる幻の刀。
夜の街。
人目の無い路地裏。
向かい合う二者の人影がある。
壮年の剣客、根津某。二尺七寸の銘刀《雲斬・乾丸》を正眼に構える。
対手は青年。半身腰高の構えで、両腕の鉄籠手を突き出した牽制の構え。ベタ足ながらボクシングの構えに似る。
人目の無いところへと移って、四半刻も経ったろうか。
三日月が雲に隠れた。
「勢ッ!」
気合一声、動いたのは根津。先制の片手籠手斬り。
青年、大袈裟に飛退き、根津の一足一刀より広い間合いを取る。
(間合いを離した?)
訝しがる根津。
剣術と柔術の仕合では、剣術/無手側が如何に間合いを離す/詰めるかこそ肝要。そして、根津/青年は打刀/無手だ。
(暗器は――)
ならば、次に考えるのは飛び道具の可能性。
一拍、間を置いて袖口に目線を配る。
鉄籠手は指まで覆っている。
(――無い)
ただ、こちらの攻めが相手の構えを上回っただけか。
判断。踏み込んで、牽制の突き。
青年、さらに一歩逃げる。
この仕合、仕掛けてきたのは青年だ。それにしては消極的な戦術。根津の脳裏に嫌な予感が浮かぶ。何かを狙っている?
(ならば、不用意には行くまい)
そのまま、左手を離す。右腕一本で袈裟に斬り下ろし、頸を狙う。
――と、刀が跳ねた。
根津は手首の折れる激痛に、思わず動きが止まる。
(!?)
それが、左の鉄籠手による刀身への打突だと気付いたのは、青年が無手の間合いに踏み込んできた時だ。
根津の流派は、腕一本の間合いを活かすべく、片手斬りを基本としている。故に、すべての技で強靭な手首が肝要となる。斬撃の刀を迎撃する手の早さと、強靭な手首を力尽くで折る膂力。不断の修練か、天賦の才か、尋常でないのは明らかであった。
そのまま右手で根津の右手首を押さえ、右脇腹に左拳。人体に十分な速度で十分な硬度と重量を叩き込めば、無事ではすまない。さらに、押さえ込まれた手首と肘にも衝撃走る。
刀を取り落とし、そこで青年も手首を極めたまま、動きを止める。
「ッ……強い!」
根津、肋骨刺さる肺腑から吐き出すように降参の意を示す。
青年は根津の手を離すと、そのまま刀を手に取る。
《雲斬・乾丸》
刀匠・雲斬の遺作となった八卦の名を冠する八本組の業物である。
「それが目当てか」
根津は、薄々感づいていた。
というのも、雲斬八卦には修羅の道を往く者たちの間に流れる風聞があった。
雲斬は八卦のほかに真の最後の一振りを打っており、その一振りを手に入れるには雲斬八卦をすべて集めなければならない。
真偽は不明。けれど、雲斬と言えば、美術品として高い評価を集める優美な作風の裏で、質実剛健な殺人剣を作り続けてきた刀匠である。美術品としての最高傑作が表向きの遺作となった《陽炎》ならば、殺人剣としての最高傑作となるべく打たれた陰の刀があるのは不思議ではない。
青年は暫く《乾丸》を眺めていたが、その後、思いがけぬ振る舞いに出る。
「なっ!?」
コンクリートの壁に、打ち付けたのだ。
ジャブで根津の手首を折る膂力で、側面を力任せに打ち付けられた《乾丸》は、乾いた金属音を立てて二つに折れた。
「雲斬の秘剣を知っているか?」
思いの外、幼さの残る声。
「雲斬の秘剣……雲斬八卦を集めた者が手に入れられる幻の刀。真実なのか?」
青年は何も言わず、立ち去った。
根津の元には、折れた《乾丸》だけが残された。雲が風に流され、三日月の月明かりが青年の去った先を照らしていた。
潮虎蔵は鉄籠手の青年と対峙していた。
青年は界隈でも名の知れた剣士であった根津の手首を折り、その愛刀《乾丸》を折ったという。
虎蔵もまた雲斬八卦が一振り《雲斬・坤丸》を所有する。青年はそれを聞いて、虎蔵の道場を訪れたのだろう。
弟子は無く、人の訪れることの無い道場である。
ここならば、悲鳴を上げられても誰かに聞かれることも無い、と虎蔵は思った。対峙して数呼吸のうちに、彼の中で対手の青年を斬り殺そうという考えが形を成していた。それだけの格を青年は有していた。
虎蔵の構えは、上段からの斬り落としを狙っているのは明らかだ。
対する青年の構えから、その戦術意図を読み取ることは難しい。半身の構えから辛うじて守勢に立たんとする意思は見えるが、守った後の攻め手は判断しかねた。
もっとも、それは虎蔵にとって大した問題ではなかった。
虎蔵の流儀は初太刀に全身全霊を賭けて打ち込む一撃必殺が信条。守勢に入って防がれたのならば、返し技を防ぐ手段は、もとより持ち合わせていない。そして、虎蔵と二尺九寸の斬鉄太刀《坤丸》の兜割りを防いだ者もまた、存在しない。
兜割り。
本来は鉄兜に斬り付けて、それを断つことを目的とした試斬の技。しかし、虎蔵はそれを立合いの初太刀として用いる。石灯籠を断ち、甲冑ごと叩き割る剛剣を、己の間合いに入った刹那、対手が応じる間も無く叩き込む。
刹那――秒をさらに幾重にも分断した時間単位の最小の果て。仏の教えでは、その間に人は生と死を繰り返しているのだ、という。そして、虎蔵の剣は、人が死んでいる刹那の間に、その死を永遠にすることができる神速の剣だ。
防ぐ術などありはしない。
(いざ、尋常に――)
虎蔵が大きく息を吸い込む。
青年が手首をぐるり、と廻した。
勝負は青年が如何に虎蔵の神速剣を掻い潜るか、その刹那の攻防で決する。
(勝負!)
と、青年の左拳が動いた。
一足一刀の間合いの外、無手の間合いからは遥かに遠い。
虎蔵、これを誘いの動きと見切る。
兜割りを受ければ鉄籠手はそのまま両断される。防ぐことのできぬ技に勝つには、技そのものを封じる他に術は無い。虎蔵にこちらの間合いに入ったと誤認させて、兜割りを空振りさせることがその目的に他なるまい。
だが。
(――届く!?)
虎蔵は首を振って拳を避けた――届き得ぬはずの左拳が、虎蔵の頬を掠めた。己の理性が囮と断じた技を避け得たのは、虎蔵の鋭敏な危機感覚の為せる術であった。即座に、積年の修練が作り上げた反射神経が、踏み込む隙も与えぬ袈裟斬り落としの一太刀を放つ。
そして、虎蔵は己の敗北を悟った。
眼前に、素足で《坤丸》を踏み抑えた青年の姿があった――その左手の拳を覆う籠手が外れていた。
「手裏剣術、か」
ここでいう手裏剣術とは、投擲術全般を指しての言葉だ。
虎蔵は《坤丸》から手を離すと、青年に背を向けて振り返った。壁には穿ったような穴が開き、その下に鉄籠手が転がっていた。
「当然、これは立ち合いの前から外してあったのだろうね?」
虎蔵は籠手を拾い上げ、その鉄籠手と青年を交互にを見遣る。
青年は《坤丸》を拾い上げ、虎蔵を見遣ると無言で肯いた。
造りからして、甲冑の籠手を外したものではないと判る。最初から籠手だけの装備として作られたものだ。その黒塗りの表面には無数の疵があり、青年の戦いの来歴を窺い知ることができる。
無数の戦いを潜り抜けてきた、戦友と言うべき鉄籠手。それを投げ捨てようという覚悟。
「見事、というしかないな」
青年は《坤丸》を手刀で叩き折った。
虎蔵の顔が苦痛に歪む。
「痛い、な」
愛刀を折られた心の痛み。青年が顔を伏せ、目を逸らした。
「その痛みを判る相手だったのが、せめてもの救いだな」
青年は顔を伏せたまま、虎蔵に背を向ける。
「最後にひとつだけ。君は、雲斬の秘剣を集めているのか――そもそも、そんなものが存在するのか?」
雲斬の秘剣。それは雲斬八卦を集めた者が手に入れられる幻の刀。
虎蔵はその存在を信じていなかった。剣友である根津と共に、まるで御伽噺だと酒の肴にして笑っていた。
「集めてはいない――だが、《雲斬・月影》は存在する」
《雲斬・月影》。
雲斬の美術品としての最高傑作、遺作《陽炎》。その対刀として、相応しい名であろう。
苦笑を浮かべる虎蔵を残して、青年は立ち去った。